本当にあった事件。
99%ノンフィクション
『小説帝銀事件』は、松本清張の長編小説です。「小説」とわざとらしくついているのは、「帝銀事件」という実際に起きた事件を基にした作品だからです。小説とは名ばかりの、実際の事件を架空の人物が考察するという99%ノンフィクションの内容となっています。
銀行員16人を狙った衝撃事件
事件は終戦から間もない1948年、豊島区の帝国銀行(現在の三井住友銀行)で発生しました。男性が現れ、赤痢の予防のためと騙して銀行員ら16人に毒薬を飲ませたのです。うち12人が死亡。犯人は現金と金品を合わせて約18万を強盗して逃亡という衝撃の強盗殺人事件でした。
当時の物価は、消費者物価で比較すると、今の約10倍。
当時の初任給は2000~5000円ほどだったことを考慮すると、肌感覚的には100倍くらいですかね。
単純に100倍としても今の1800万。確かに大金ですが、16人を標的にしてまで狙う金額かというと、それほどの額とは思えません。
このように計画の段階からして奇妙な事件でしたが、犯人はどうやって劇薬を入手したのか、銀行員を騙すための話術やその補助としての小道具はどこで、という謎がスッキリと解決しないまま、実行犯として名のある画家が吊るし上げられ、あやふやな証拠だけで死刑宣告を受けるという結末を迎えました。
本事件は、謎がスッキリと解決せずに終わった未解決事件として知られ、また代表的な冤罪疑惑事件としても有名です。実際本書のスタンスも、捜査の過程やその結末に疑問を投げかける内容となっています。
報告書のような内容
冒頭と終盤にちょこっとドラマっぽいことがあるだけで、大部分は主人公が資料を精査検討する内容となっています。そのため、エンタメ的な面白さはなく、まるで報告書を読んでいるかのようでした。
ただその緻密さにはさすがのものがあり、事件当日のゴタゴタ感、北海道から容疑者護送の際のトラブル、自白前と自白後の証言の変化など、現実の話なだけあり、かなり生々しいです。報告書の内容をそのまま引用したかのようなカタカナのみで記されたシーンにはゾッとしました。
またミステリー作家らしく、アリバイ検証に特に気を使っていて、事件当日だけでなく、それ以前の類似事件まで検証しているのはすごいです。ただ、一旦羅列して、検証&再検証のパターンが多いので、繰り返しが多く、読んでいて疲れました。
典型的冤罪事件とリアリティのなさ
本事件は、自白の強要と科学捜査(筆跡鑑定を科学と呼ぶなら)のイレギュラーという、典型的冤罪事件の要件が揃った事件だと言えるでしょう。直接証拠はなく、実際の生存者や類似事件の目撃者の証言も、確実な合意が取れているかというとそうでもない。
とはいえ、正直な感想として、平沢は黒っぽいなという印象です。事件後に妻に渡したり、偽名で預金したりした大金の出処を明らかにできなかったことへの合理的説明ができなかった点は致命的だと思われます。ただ、その点を含めても、彼が有罪であることを立証する証拠はなかったと。で、疑わしきは罰せずで、無罪というのが妥当な判断であると思います。
おそらく多くの人が引っかかっているのは、この事件にまったくリアリティを感じ取れないところにあると思います。そもそも銀行強盗するにしても16人も狙うのはリスキーすぎます。とても頭のいい人間が考えた計画とは思えません。対して犯行は高い演技力と小道具の利用から、およそ素人の手口には思えない。素人が考えてプロが実行したかのようなアンバランスさが気持ち悪さを生んでいる原因のように思います。
本作ではGHQが絡んだ陰謀論をちらつかせています。確かに、非情なプロが実行したというほうが腑に落ちますね。反対に素人がまぐれ的に成功したとも考えられますが、結局どちらにしても真相は闇の中です。
当時を生きた作家の坂口安吾は、以下のように述べています。
私は帝銀事件に戦野を思う。
帝銀事件を論ず
近所が焼け野原になり、多くの死を見てきた当時の人にとって、それほど浮世離れした犯行のように思えなかったということでしょう。つまり、異常な人物ではなく異常な時代のせいだと。そのうえで、「団結せねば」とか「最近の政治家は~」みたいな今にも通ずる一般論につながるところが、あぁ本当にあった事件なんだなぁと再確認させられますね。ちなみに、坂口安吾は素人のマグレ当たり説を支持したそうです。
参考映像
NHKアーカイブスで公開されている当時のニュース映像をいくつか。他にも帝銀事件で検索すればいくつかヒットします。(そのままクリックすると現在のタブで開きます)
これらの映像を観ると、当時のマスコミの苛烈さには驚きます。捜査本部に入り込んでいたり、取り調べ室を屋上からとっていたりとやりたい放題です。その実、警察の流す一方的な情報に踊らされ、簡単に誘導されていたのだから滑稽な話です。BGMまでつけてセンセーショナルに報じることで世論は平沢クロで染まり、裁判所もそんな世論に迎合したような判決を出したと言われています。坂口安吾の指摘するように、時代の責任…というか影響はあると思うのです。
結局犯人とされた平沢は39年間の獄中生活の末に獄死しました。この事件に関して、もはや救済は手遅れとなりましたが、過ちを繰り返さないという学びを得ることはできるはずです。
コメント