ショーペンハウアーって人は、30歳で『意志と表象としての世界』っていう主著を完成させ、後の人生はその補完や改訂を繰り返すだけだった。
晩年~死後に評価され、主著の副読本『余録と補遺』から、現代の編者がテーマを選んで抜粋した「~について」シリーズが現代でも人気。これはシリーズっていうか、「書名はわかりやすくシンプルに書こうぜ」と主張する著者にならって「~について」って誰かが出したら、以降も追随して「~ついて」シリーズっぽくなってる。
読みやすくてオススメなのは「読書について」一択。100ページほどしかないし、内容もライト。この本は「思索」「著作と文体」「読書について」の三篇からなり、読書について語られている分量はそれほど多くない。むしろ書く側へ向けた警句がほとんど。「文章は簡潔に」「概念を正確に表現」といった実践的なものから、「最近のドイツ人の国語はどうたら」といった「最近の若者は~…」に通じる頑固爺的な喚きが面白い。参考になるだけでなく、エンタメ的にも楽しい本。
次にライトなのは「幸福について」かな。書名からわかるように、一番哲学っぽくて身近なテーマ。
もともと具有するものが大きければ外部から必要とするものも少なくなる。
わかりやすく言うと、「主観で満足できてたらいいじゃない」てな感じのよくある自己啓発本と同じ結論。面白いのは、ペシミストがこれを書いていること。生きるのつらたん…ってのが大前提としてある。今以上の幸福を…というより、苦悩を減らす、マイナスをゼロにする幸福を目指そうというもの。
陰気な人間は悲観的で予防策を講じているから誤算は少ないが、陰気に拍車をかけると厭世観を生じて死にたくなる気分になる。
ちゃんと備えろ、でも備えすぎると気が滅入るよね…っていう、いかにも生きるの難しいって人の文章。他にも、「多く笑うものは幸福だという言葉を忘れられなかった」とか、肉体は重要な財産だから毎日2時間外出ろ、変に緊張するな、座ってばかりだと良くない、のような身近で実践的で人間味のあるアドバイスがいっぱい。やや長いけど、中身はとても読みやすい。
「自殺について」「知性について」は、これら2冊より格段に読みにくくなる。というのも、より主著の補完的な内容に近づくからだ。前2冊でも「詳しくは主著で~」というのはあったが、この2冊はより詳細な読み込みを要望される感じ。カント云々、ヘーゲル云々が多くなり、言っていることはわからないが、ブチギレていることはわかるっていう感じの文章が増える。
概念の適用に厳格な著者には申し訳ないが、主著『意志と表象としての世界』の内容は、大きく次の2点に集約される。
- カント哲学こそ至高
- 意志も物自体
基本ショーペンハウアーはカントの観念論(純粋理性批判)を引き継いでいる。人が知り得ることには限界があると。だから「自殺について」では「死後の世界とかわかんねぇからビビる必要はねぇ」と言っている。「認識論についてはカントが結論出してるよ」としょっちゅう言っているイメージ。
カントは認識論の次に倫理の問題について考え、それがかの有名な定言命法「汝の意志の格律がつねに普遍的立法の原理として妥当しえるように行為せよ(俺ルールが全員がいいと思えるルールと一致する行動しようぜ)」につながる。ただ、ショーペンハウアーはこれがあんまりしっくりこなかった。
より良く生きようはともかく、それが普遍的ルールにつながるとは思えなかったし、ましてやそれを発展して社会変革まで語っちゃうのは、オーバーなように感じられたのだ。理想を持って気高く生きようと思っても、頭痛や腹痛に襲われると一瞬で脳内ジャックされるのが人間。理想より現実。思考より肉体。後の世に実存主義と呼ばれる考え方だが、ショーペンハウアーはそっちのほうがリアルだと思ったのだろう。
で、ショーペンハウアーが言う意志というのは、生物としての特性、遺伝子みたいなこと。「知性について」の解説では、「ひたすら生と現実へ押し向かう盲目的な衝迫としての生命意志」と表されている。ショーペンハウアーが思い切ったところは、それを物自体と同列に並べたことだ。
物自体とは、カント哲学の概念。わたしたちの認識はすべて主観の形式によって規定された後のもので、規定される前の生データは決して知り得ない。その生データを物自体という。どこからどこまでは形式で、どこからが物自体なのか、認識できる範囲を検討したのが純粋理性批判。その結論が、哲学で物自体について考えるのはもう野暮だからやめよう、というもの。
ショーペンハウアーもその考えを引き継ぎ、「物自体について語っているから、はいお前の論拠は破綻~」という論破の手法をよく取る。そんな彼なのに、なぜか「意志は別」と言っている。
皆同じように腹が減ったり、眠くなったり、植物が同じカタチに育ったり、こんなん明らかに因果必然があるやん!となったわけだ。
今だったら遺伝子ね、DNAね、とすぐに理解できるところだが、当然当時はそんな原理は解明されてなく、まったく知り得ない物自体の範疇だった。東洋密教やら、いくらか神秘的な側面を見せていたこともあり、カント信者を標榜しながらも、ラインを超えた変な思想…ってのがリアルな評価。哲学史的には完全に傍流扱いをされている。
ただ、意志を遺伝子と読み替えると、人間を悲観的、生物学的に捉えた態度が、むしろ現代的に感じられなくもない。人間の分析が進み、人間に対しての身も蓋もない論説が増えているが、それと比較するとショーペンハウアーの分析にはまだ希望がある。わざとネガティブなことを言っているわけではなくて、処世術を語っているだけで、根本ではめっちゃ長生きしたいんだろうなってのが伝わってくる。そういう点でも、今読むのがちょうどいいかも!
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